高田渡が不遇を託っていた10年間「とにかく(歌うべき)詩人の詩を探し求めていた」と言っていたのは佐久間順平。番組でチラッと映った生前の高田渡の詩集がぎっしり詰まった本箱が気になる。前回レコードの棚が映ったが、わたしが気になるのはやはり本箱だ。なぜなら高田渡は圧倒的に詩のヒトだからだ。だれかが「高田渡のレコード棚」という本を準備中だということをどこかで読んだ。でもほんとうにやっておかなくてはならないのは「高田渡の本箱」の方ではないのか。なんで「民衆の心を歌い続けていた」ではいけないのか。高田渡のファンたちは「型にはまった」とアレルギー反応を起こすこういう評価が気に入らないようだ。「渡さんはもっと自由だった」って。でも商業主義を拒んだ高田渡は民衆の心を歌い続けることを選んだのだよ。自由だったのは商業主義からだったということじゃないのか。「世の中には詩でなければ解決できない問題がある」と書いたのはマヤコフスキーであり、それを支持したのは関根弘だったが、「世の中には高田渡の歌じゃないと解決できない問題がある」ってことじゃないか。「夕暮れ」であり「ブラザー軒」であり「おなじみの短い手紙」であり「さびしいといま」なのである。「民衆の心を歌い続けていた」でなにが悪い。酒にだらしない変わったおじさんが仲間と酒盛りしているのをカネを出して遠巻きに見物させてもらっているような映画「タカダワタル的」は高田渡の本質から最も遠い。

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